2014年10月18日(土)
ATLネット代表、浅野史郎さんの「ミニ移植」治療との闘いを綴った記事が連載されています。
(患者を生きる:2628)働く 元知事の闘い:4 「ミニ移植」、再び教壇へ
血液がんの成人T細胞白血病(ATL)と診断された、元宮城県知事の浅野史郎さん(66)は2009年10月、東京大学医科学研究所付属病院から国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)に転院した。骨髄移植を受けるためだ。田野崎隆二・輸血療法科長(55)が待ち受けていた。
基本的な白血病の治療法は、大量の抗がん剤と強力な放射線照射で骨髄を完全に破壊し、新しい造血幹細胞を移植する。ただ、その「フル移植」には体力がいるので、原則55歳くらいまでしか受けられない。一方、白血病の患者の平均年齢は年々上がり、移植を受けられない患者が増えていく。そこで「ミニ移植」が生まれた。
「ミニ移植では、確かに患者さんの白血病細胞が体内に残ってしまうのですが、それが移植されたドナー(提供者)のリンパ球の持つ免疫力で殺され、なくなっていくんです」と田野崎さんは言う。
ミニ移植の最先端を行く国立がん研究センターでは、1999年~13年末に600人以上の患者がミニ移植を受け、生存率は年々向上している。公的保険医療の対象にもなり、最近では地方の病院でも受けられる。
10年2月の退院の日、浅野さんは田野崎さんに聞いた。
「先生、マラソンで例えるなら、いま、何キロですか」
「10キロ地点ですかね」
手術後、浅野さんはドナーの骨髄への拒絶反応である「GVH病」や移植後の合併症で入退院を繰り返しながらも、10年10月からは横浜市の自宅で暮らしている。
09年5月の発病から5年5カ月がたった今も、浅野さんは3週間に一度、妻の光子さん(65)と連れだって定期的に診察を受ける。
昨年から神奈川大で「地方自治論」を教えている。発症前に慶応大で教えていた楽しさが忘れられず、大学にお願いして「障害福祉論」のゼミも受け持っている。
「官僚時代も知事時代も、与えられた仕事を精いっぱいやる姿勢でやってきた。でも病気をして、自分がもらってきたものを学生に与えることが、これからの自分の仕事と思うようになりました」
発症で突然「闘病」が仕事になり、そして再び、「授業」が仕事になった。
血液がんの成人T細胞白血病(ATL)と診断された、元宮城県知事の浅野史郎さん(66)は2009年10月、東京大学医科学研究所付属病院から国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)に転院した。骨髄移植を受けるためだ。田野崎隆二・輸血療法科長(55)が待ち受けていた。
基本的な白血病の治療法は、大量の抗がん剤と強力な放射線照射で骨髄を完全に破壊し、新しい造血幹細胞を移植する。ただ、その「フル移植」には体力がいるので、原則55歳くらいまでしか受けられない。一方、白血病の患者の平均年齢は年々上がり、移植を受けられない患者が増えていく。そこで「ミニ移植」が生まれた。
「ミニ移植では、確かに患者さんの白血病細胞が体内に残ってしまうのですが、それが移植されたドナー(提供者)のリンパ球の持つ免疫力で殺され、なくなっていくんです」と田野崎さんは言う。
ミニ移植の最先端を行く国立がん研究センターでは、1999年~13年末に600人以上の患者がミニ移植を受け、生存率は年々向上している。公的保険医療の対象にもなり、最近では地方の病院でも受けられる。
10年2月の退院の日、浅野さんは田野崎さんに聞いた。
「先生、マラソンで例えるなら、いま、何キロですか」
「10キロ地点ですかね」
手術後、浅野さんはドナーの骨髄への拒絶反応である「GVH病」や移植後の合併症で入退院を繰り返しながらも、10年10月からは横浜市の自宅で暮らしている。
09年5月の発病から5年5カ月がたった今も、浅野さんは3週間に一度、妻の光子さん(65)と連れだって定期的に診察を受ける。
昨年から神奈川大で「地方自治論」を教えている。発症前に慶応大で教えていた楽しさが忘れられず、大学にお願いして「障害福祉論」のゼミも受け持っている。
「官僚時代も知事時代も、与えられた仕事を精いっぱいやる姿勢でやってきた。でも病気をして、自分がもらってきたものを学生に与えることが、これからの自分の仕事と思うようになりました」
発症で突然「闘病」が仕事になり、そして再び、「授業」が仕事になった。
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